エミリオ・ナッパ大司教訪日―カテキスタたちとの集いでの講話
Incontro con i Catechisti dell’Arcidiocesi di Tokyo in Giappone
カテキスタたちとの集い
2025年3月25日火曜日16時
皆さんこんにちは。

わたしはバチカン市国行政庁次官で前教皇庁宣教事業会長のエミリオ・ナッパ大司教です。東京教区のカテキスタの皆さん、そして日本カテキスタ会の皆さんとお会いできて大変うれしく思っています。
日本のカトリック教会は、国内ではマイノリティーです。いまでも、カトリック教会が何であるか、司祭がどんな人であるかを多くの人が知りません。とはいえ、日本の教会には特異な歴史と幾世紀にもわたる殉教の伝統があります。とくに、長い迫害の時代に生きた信仰を守り続けてきた力は、ほかに類を見ません。
現在、働いている司祭の約半数が日本人です。残りの半分は外国出身者です。そして日本の教会のなかでは、移民や外国人労働者のカトリック信者の数が、日本人信徒と同じくらいか、それ以上になっています。この現実は、日本のカトリック教会の固有の特徴を示しています。高齢化によって、わたしたちの共同体の活力が失われることもあるかもしれません。しかし、いま日本の教会は、多くの移民や外国人労働者を積極的に受け入れ、その司牧に尽くしています。日本の教会は多くの高等教育機関を運営し、平和の価値を広めるために国際レベルで協力しています。こうして日本の教会は、福音の価値を日本の社会に根づかせようとしているのです。
これらすべての中心に、皆さん方がいます。皆さんは、神のみことばを分かち合い、教会の教えを伝えながら、外国出身の宣教師と日本人信徒の橋渡しをしています。皆さんは、移民や外国人労働者を温かく受け入れ、彼らがカトリック共同体の一員であると感じる手助けをしています。そして皆さんは、よき知らせ、福音のメッセージを告知しています。
ご存じのように、福音宣教とカテケージスは密接に結びついています。教皇フランシスコは、使徒的勧告『福音の喜び』のなかで次のように述べています。
「最初の告知、すなわち『ケリュグマ』は、福音宣教活動や、教会を刷新しようとするあらゆる意図の中心を占めていなければなりません。…この告知は『最初のもの』と言われていますが、それは最初だけのもので、後になって忘れ去られてしまうか、もっとよい別の内容に置き換えられるという意味ではありません。最初というのは、質的な意味においてです。なぜならそれは、常に立ち返って、違ったふうに耳を傾けるべき主要な告知だからです。そして常に立ち返って、どの段階にあっても、どんな瞬間でも、何らかのかたちでカテケージスの間に告げ知らせるべき主要な告知だからです。…キリスト教的な養成はすべて、何よりもまずケリュグマを深めていくことなのです」(『福音の喜び』164-165)。
カテケージスは、人の心のなかに過越の告知を絶えず響かせて、その生活を変えます。公式に信仰の概念を説明するだけでは十分ではありません。新しいいのちの地平に到達するために自らを完全に主イエスに対して開き、イエスとの出会いから出発することが重要なのです(『カテケージス一般指針』56参照)。カテケージスの中心には、キリストとの生きた出会いがあります。「カテケージスの最終目的は、イエス・キリストについて知ってもらうだけでなく、その人が親しくイエス・キリストと交わるようにすることです」(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告『要理教育』5)。
皆さんはこの世界に生きながら、福音宣教のために貴重な奉仕をしています。皆さん方の生活そのものが、キリストの弟子たちと同じように、一種の福音の告知となっています。皆さんは、自分の選択の動機を説明するだけでなく、さまざまな状況下で福音をあかしし、人生の出来事をキリスト教的に解釈し、キリストやキリスト教の価値を語る機会をもっています。このような形態のカテケージスは、前もって準備できないことも多く、ときには即興で行なわなければならない場合もありますが、いのちのあかしと直接結びついているので、非常に重要です(『カテケージス一般指針』121参照)。
このようにカテケージスは、洗礼志願者に教える要理教育の教室内だけでなく、日々の生活のなかでも、また教会共同体全体のあかしを通しても、なされるのです。だからと言って、公式の固有の意味でのカテケージスの重要性が減じるわけではありません。22の宣教協力体に分けられた東京教区が、生涯にわたる信徒の継続的なカテケージスの計画を立て、実行してきたことをわたしは知っています。この計画の中心には、若者たちに特別な注意を払いながら、神のみことばを傾聴し、分かち合うことがあります。このすべてにおいて、皆さんの役割がどれだけ大切であるかについては、さらに強調する必要はないでしょう。
前教皇庁宣教事業会長として、皆さんに特別なお願いがあります。皆さんの生活のあかしを通したカテケージスにおいても、教室内で洗礼志願者や信徒に対して行なうカテケージスにおいても、教会の社会教説を教えるのを忘れないでください。ご存じのように、教会の社会教説は、究極目的であるキリストを通した全人類の救済を目指しながら、いかに福音的に社会生活を送るかを教えてくれます。共通善を推し進めていくために、平和より大切なものはありません。
皆さん方のあかしは、広島と長崎への原爆投下によって引き起こされた傷を、戦争の残酷さをいやし、核兵器を含む軍備拡張を止めるために役立つでしょう。皆さんのあかしは、ゆるしと和解と平和の道を歩む手助けをしてくれるでしょう。このあかしは、大変強力で説得力のあるメッセージを伝えることになるでしょう。
さらに、長きにわたるミャンマー紛争の影響で家を失い、苦しみのうちに生きる人々に対して東京教区と日本の教会が行なっている愛徳活動は、教会だけでなくアジアの多くの人々にとっても、模範になっています。
ミャンマーにおける内戦や紛争は、西洋では「忘れられた戦争」とみなされています。しかし、ミャンマーの一部の地域では、60年以上も内戦が続いています。人間の尊厳を奪われ、圧制や搾取の犠牲者となっているロヒンギャの民のことも忘れてはなりません。教会も苦しんでいます。少なくとも4つの教区で、司教たちが司教座聖堂や司教館を離れることを余儀なくされています。政府軍や反乱軍による爆撃で、多くの小教区が破壊され、閉鎖されました。例えば、ミャンマー北部のロイコーでは、爆撃を逃れるために、人々が洞窟に避難しています。昨年のクリスマスには、ロイコーの司教が洞窟のなかで信者とともにクリスマスのミサを祝いました。
日本の教会は、長い迫害の間、禁教にもかかわらず、生きた信仰を守り抜いた共同体です。相手を傷つけて受けた傷に仕返しをするのではなく、神のみから与えられる真の平和への希望のあかしとなることを学んだ共同体です。日本の教会は、復活したキリストの手足につけられた傷が、この上なく大きな愛のあかしであることを知っています。ですから、皆さんのカテケージス活動によって日本の教会が生きた信仰を守り続けるように、皆さんを励ましたいと思います。

しかし、このような国際的な紛争を前に、無力さを感じるときもあります。わたしたちの小さな努力が無益に感じられるときもあります。カテケージスの具体的な活動においても、カテキスタの任務に失望を覚えるときもあります。せっかく苦労して準備したのに、誰も会合に参加してくれないことだってあります。福音の教えを実践するための提案に、小教区のほかの信徒や司祭から期待していたような支援を受けられないこともあります。そんなとき、やる気を失ってしまい、ミニマリスト的な態度を取って必要最小限のことをするだけで満足してしまう危険があります。
でも忘れないでください。いまわたしたちは、「希望の巡礼者」をテーマとする聖年を迎えています。そこで、フランスの詩人シャルル・ペギーの一節を引用してみたいと思います。希望について語った文章です。
「信仰は一本の大きな木のようなものです。フランスの心に根づいた樫の木です。この木に守られて、愛が、わたしの娘である愛が、世界のあらゆる苦悩をいやしてくれます。それはわたしの小さな希望です。そしてそれはまさに、4月のはじめに告げられる芽吹きの小さな約束にほかなりません。…激しい力、荒々しさを前に、柔らかい小さな芽は取るに足らないものにしか見えません。…でも、その芽からすべてがはじまるのです。はじめにその芽がなかったら、木は枯れてしまうでしょう。4月のはじめか、あるいは3月の終わりに、一度この数千の芽吹きが起こらなかったとしたら、何も残らないでしょう。木は枯れてしまうでしょう。木があった場所には何も残らないでしょう」。
わたしたちは、自分だけの仕事をしているのではなく、神のわざを行なっているのです。わたしたちの希望を神の忠実さにゆだねましょう。神は常に契約に忠実な方であり、わたしたちのためにご自分のいのちを差し出されたほど、わたしたちを愛された方です。
最後に、実際的で具体的な面に触れないわけにはいきません。全世界に3,000近くある教区のうち、福音宣教省の管轄下にあるのは1,200ほどです。1,600の教区はほかの省庁の管轄下にあります。司教の任命は司教省の、司祭の規律の問題や養成は聖職者省の、奉献生活の会と使徒的生活の会に関する問題は奉献・使徒的生活会省の管轄です。とはいえ、日本を含め、全アジア、全アフリカ、全オセアニアの宣教地の1,200の教区に関しては、福音宣教省がこれらのすべての分野を管轄しています。
本省は、行政上や司牧上の問題に対処するだけにとどまらず、教皇庁宣教事業を通しても、これらの教区の多くに、通常のあるいは特別な経済支援を行なっています。これらの経済支援がなければ、多くの地域で司祭が生きるために必要なものさえ欠くようになってしまうでしょう。とはいえ、今日では、ヨーロッパと北米における信者数の減少により、献金が大幅に減っています。こうした状況は、困難な状況にある教区を維持していくうえで重大な障害となっています。
皆さん方が普遍教会のためにいつも寛大さを示して下さっていることに深く感謝しています。それでも、ぜひともあらためて訴えたいと思います。例えばアフリカ向け献金(Pro Afris)のように聖座が特別な目的のために集める献金や、世界宣教の日の献金は、困難な状況にある教会や宣教地の支援のために欠かせないものです。多くの地域で、宣教司祭たちがほとんど給料もミサ意向の献金も受け取れず、生きていくのに苦労しています。こうした必要性についても、カテケージス活動のなかでぜひとも信徒の皆さんに知らせてほしいのです。
今日は、日本の教皇庁宣教事業のナショナルディレクターであるヨゼフ門間直輝神父様もいらっしゃいます。神父様が宣教司祭や宣教地の現地人司祭を支援する方法を説明してくださるでしょう。宣教司祭たちは皆さんの意向のためにミサをしてくれるでしょう。その際のミサ献金は、宣教への重要な支援となるでしょうし、その地域で福音を広める貢献となるでしょう。
わたしのことばが、皆さんのカテキスタとしての使命に新たな弾みをつけ、日々の生活で信仰を生きるヒントとなり、全世界の宣教師やカテキスタと協力する励みとなることを願ってやみません。
ご清聴と、福音の教えを広めるために皆さんが行なっている活動に感謝しつつ、神の母聖マリアと日本のすべての殉教者聖人のとりなしによって、皆さん方のうちに始まったわざを主が完成に導いてくださるようにお祈りいたします。心から感謝します。よい聖年をお迎えください。尊敬と感謝の気持ちであいさつを送ります。よい聖年を!
バチカン市国行政庁次官・前教皇庁宣教事業会長
エミリオ・ナッパ大司教
