2023年「世界宣教の日」教皇メッセージ

2023年「世界宣教の日」教皇メッセージ
「燃える心、踏み出す足」(ルカ24・13−35参照)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今年の「世界宣教の日」には、ルカ福音書のエマオの弟子たちの物語(24・13−35参照)からインスピレーションを得て、「燃える心、踏み出す足」というテーマを選びました。この二人の弟子は混乱と失意のうちにいましたが、みことばと裂かれたパンにおられるキリストとの出会いによって、エルサレムへと引き返し、主はまことに復活されたと告げる心に火がついたのです。福音の物語の示唆的ないくつかの描写からは、弟子たちの変化がうかがえます。イエスが聖書を説明してくださったことで燃える心、イエスだと気づくよう開かれた目、そしてきわめつけは踏み出す足です。宣教する弟子たちの旅の輪郭を示すこの三つの姿を黙想することで、現代世界においての福音宣教の熱意を新たにできるでしょう。

1.「聖書を説明してくださったとき」の燃える心――宣教活動において、神のことばは心を照らし変えてくださる

 エルサレムからエマオに向かう道すがら、二人の弟子の心はその表情が示すとおり、信じていたイエスの死によって悲しみに包まれていました(17節参照)。十字架につけられた師の敗北を目の当たりにして、そのかたこそメシアだとの期待が崩れ去ったのです(21節参照)。

 そのとき、「話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められ」(15節)ました。最初に弟子たちを召し出されたときと同じく、戸惑いの内にあるここでもまた、主はご自分から弟子たちに近づき、歩みをともにされます。その深いいつくしみによってイエスは、わたしたちに過ち、疑い、弱さがあろうとも、悲しみや落胆から「物分かりが悪く、心が鈍く」(25節)、信仰の薄い者になってしまっても、わたしたちとともにいてくださることに倦みはしません。

 あのときと変わらず今日も、復活の主は宣教する弟子のそばにおられ、寄り添い歩んでくださいます。迷いの中にあったり、力を落としていたり、得体の知れない悪に取り囲まれ息の根が止められる恐怖の中にあるときは、なおさらです。ですから、「希望を奪われないようにしましょう」(使徒的勧告『福音の喜び』86)。主は、わたしたちが直面する問題よりはるかに力あるかたです。まして、世に対する福音宣教の中でぶつかる問題には、いっそう力を振るってくださいます。宣教の使命は結局のところ主のものであり、わたしたちは主に仕えるささやかな協力者、「取るに足りないしもべ」にすぎないからです(ルカ17・10参照)。

 世界中のすべての宣教者、とりわけ、困難を味わっている宣教者の皆さんに、キリストにおいてわたしが心を寄せていることを伝えたいと思います。親愛なる皆さん。復活の主は、必ず皆さんとともにおられます。遠い地で福音を伝える使命のため、皆さんがささげる寛大さと犠牲を理解しておられます。人生は毎日が晴天というわけではありませんが、主イエスが受難の前に友に語ったことばを、いつも思い起こしてください。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16・33)。

 エマオへの道で二人の弟子の話を聞くと、復活されたイエスは「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明され」(ルカ24・27)ました。すると弟子たちの心は熱く燃え、ついにはこう語り合うまでになります。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。まさにイエスは生きたことばであられ、心に火をつけ、心を照らし、変えることのできる、ただお一人のかたです。

 ここまでくると、聖ヒエロニモの主張、「聖書についての無知は、キリストについての無知である」(『イザヤ書注解』序文)の理解が深まります。「聖書に対してわたしたちの心の目を開く主の存在なしに、聖書の深みを理解することはできません。しかし、その逆も同じように真実です。聖書なしには、イエスの宣教の出来事、そしてこの世界におけるイエスの教会の宣教の出来事は理解できません」(教皇フランシスコ自発教令『アペルイット・イリス』1)。ですからキリスト者の生活にとって聖書の知識は大切なものであり、キリストとその福音をのべ伝えることにおいてはなおさらそうなのです。そうでないならば、自分の考えや計画ではないものを、どうやって人に伝えるのでしょうか。ましてや、冷めた心をもって、人の心を燃やすことなどできるでしょうか。

 ですから聖書の意味を説明してくださるかた、復活した主に、いつも寄り添っていただきましょう。主の霊からもたらされる力と知恵をもって救いの神秘を世にのべ伝えられるよう、主に自分の心を、燃え上らせ、照らし、変えていただきましょう。

2.パンが裂かれると、目が「開け、イエスだと分かった」――聖体におられるイエスは、宣教活動の頂点であり源泉

 神のことばで心が燃えていたので、エマオの弟子たちは謎に包まれた旅の人に、夕食をともにしてほしいと頼みます。そして食卓を囲み、そのかたがパンを裂かれると、彼らの目は開きイエスだと分かるのです。弟子たちの目を開く決定的なものは、イエスによる一連の動き、すなわち、パンを取り、賛美の祈りを唱え、裂いて渡すことです。これらはユダヤ人の家長がふつうに行うことですが、聖霊の恵みをもってイエス・キリストが行うことで、それらは二人の会食者にとって、パンの増加の奇跡のしるしに、そして何よりも、十字架のあがないの秘跡であるエウカリスチアのしるしに書き換えられるのです。ところがパンを裂いておられるのがイエスだと分かった瞬間に、「その姿は見えなくなった」(ルカ24・31)のです。この事実から、信仰の本質的な現実が分かります。パンを裂くキリストは、今やご自分が裂かれたパンとなり、弟子たちに配られ、そうして彼らの血肉となるのです。目には見えなくなってしまうのは、キリストは今や弟子たちの心の内に入り、彼らをさらに燃え立たせておられるからです! そしてすぐさま道を引き返すよう駆り立て、復活したかたとの出会いというかけがえのない経験を、すべての人に伝えるよう促すのです。このように、復活したキリストはパンを裂くかたであると同時に、わたしたちのために裂かれたパンでもあられます。ですから宣教する弟子一人ひとりに求められているのは、イエスのように、イエスを通して、聖霊の働きによって、パンを裂く者となり、世のために裂かれるパンとなることなのです。

 この点からいえば、キリストの名において物質的なパンを飢えた人々と分け合うということだけで、それはすでにキリスト者の宣教活動なのだということを忘れてはなりません。キリストご自身である聖体のパンを裂くことは、なおのこと宣教の最高の行為です。感謝の祭儀こそ、教会生活と宣教の源泉であり頂点であるからです。

 教皇ベネディクト十六世は次のようにいいます。「(聖体の)秘跡の中で祝う愛を、自分だけのためにとどめておくことができません。この愛は、本来、すべての人に伝えられることを求めます。神の愛、キリストと出会うこと、キリストを信じること――世界はまさにこのことを必要としています。ですから、聖体は教会生活の源泉と頂点であるだけでなく、宣教の源泉と頂点でもあります。『真の意味で聖体に生かされた教会は、宣教する教会です』」(使徒的勧告『愛の秘跡』84)。

 実を結ぶために、わたしたちは主につながっていなければなりません(ヨハネ15・4−9参照)。このつながりは、日々の祈りによって、とくに、聖体によってわたしたちのもとにとどまっておられる主の現存を前に、沈黙をもって、礼拝することで得られるものです。キリストとのこうした交わりを愛をもってはぐくむ宣教する弟子は、行動する霊性の人となるはずです。エマオの二人の熱心な、とくに日が暮れてからの「主よ、一緒にお泊まりください」(ルカ24・29参照)という強い願いにあこがれて、イエスがともにいてくださることを熱望する心を持ち続けられますように。

3.復活したキリストを語る喜びを胸に、踏み出す足――いつも外へと出て行く教会の永遠の若さ

 「パンを裂いてくださったときに」目が開けてイエスだと分かると、弟子たちは「時を移さず出発して、エルサレムに戻ります」(ルカ24・33参照)。このように、主と出会った喜びを他の人々と分かち合おうと急ぎ発つのは、次のことを表しています。「福音の喜びは、イエスに出会う人々の心と生活全体を満たします。イエスの差し出す救いを受け入れる者は、罪と悲しみ、内面的なむなしさと孤独から解放されるのです。喜びは、つねにイエス・キリストとともに生み出され、新たにされます」(使徒的勧告『福音の喜び』1)。すべての人に伝えたいとの熱い思いに駆られないのならば、復活したイエスと真に出会ったとはいえません。ですから宣教活動にもっとも欠かせない源泉は、聖書と聖体に復活したキリストを見、心にキリストの火を宿し、瞳にキリストの光をたたえる者たちです。彼らは、きわめて困難な状況や、真っ暗な闇の中にあろうと、決して死ぬことのないいのちをあかしするはずです。

 「踏み出す足」のイメージは、「諸国民への宣教(missio ad gentes)」が変わらず有効であることを、あらためて思い出させてくれます。それは、地の果てに至るまで、すべての人、すべての民族に福音を伝えるようにという、復活した主が教会に与えた使命です。今日、かつてないほどにおびただしい数の不正義、分裂、戦争で傷ついている人類には、キリストにおける平和と救いの福音が必要です。そこでこの機会に、あらためて申し上げたいと思います。「だれもが、福音を受け取る権利を有しています。キリスト者たちは、だれをも排除することなく福音をのべ伝える義務を負っていますが、それは、新たな義務を人に課すようなものではなく、喜びを分かち合い、美しい地平を示し、だれもが望む宴(うたげ)に招くようなものでなければなりません」(『福音の喜び』14)。「福音宣教はあらゆる教会活動の典型である」(同15)ので、宣教者としての回心は、個人としても共同体としても、わたしたちが自らに課すべき大事な目標であり続けます。

 使徒パウロがいうように、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているのです(二コリント5・14参照)。そこにあるのは二重の愛です。キリストのわたしたちへの愛が、わたしたちのキリストへの愛を呼び起こし、駆り立て、かきたてるのです。この愛こそが、「その一人のかたはすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださったかたのために生きることなのです」(同15節)と確信し、キリストの福音をのべ伝える使命をもって成員がこぞって出向いて行く、いつも若々しい教会を作るのです。祈りや行動で、献金や犠牲を差し出すことで、だれもがこの宣教運動に貢献できるはずです。教皇庁宣教事業は、こうした宣教協力を霊的・物質的に支援することに特化した機関です。このために、「世界宣教の日」の献金は教皇庁信仰弘布事業へと送られます。

 急務である教会の宣教活動には、当然ながら、あらゆるレベルで、すべての成員に、これまで以上に緊密な宣教協力が求められています。これは教会が「交わり、参加、宣教」をキーワードに進めているシノドスの歩みに欠かせない目標です。当然ながらこの歩みは、教会を教会自身に服従させるものではありません。人間の好みに応じて、何を信じ何を実践するかを、国民投票のように決めるプロセスではありません。むしろ、エマオの弟子たちのように、復活の主に耳を傾けつつ、旅に身を置くことです。いつもわたしたちのもとに来られ、聖書の意味を説き、わたしたちのためにパンを裂いてくださる主のおかげで、わたしたちは聖霊の力をもって、世における主の使命を果たしていけるのです。

 あの二人の弟子が道中でのことをほかの弟子に伝えたように(ルカ24・35参照)、わたしたちの宣教もまた、主キリストを、その生涯を、その受難と死と復活を、その愛がわたしたちの人生にもたらした驚嘆を、喜びにあふれて物語るものとなりますように。

 さあ、復活の主との出会いに照らされ、その霊に励まされ、わたしたちも再び出発しましょう。燃える心で、開いた目で、踏み出す足で、再び出向いて行きましょう。神のことばで人々の心を燃やすために、聖体におられるイエスに目を開かせるために、キリストにおいて神が人類に与えた平和と救いの道をともに歩むようすべての人を招くために――。

 道である聖マリア、キリストの宣教する弟子たちの母、宣教者の元后、わたしたちのために祈ってください。

ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
2023年1月6日 主の公現の祭日