2024年「世界宣教の日」教皇メッセージ

2024年「世界宣教の日」教皇メッセージ
「出て、だれでも婚宴に連れてきなさい」(マタイ22・9参照)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今年の世界宣教の日のテーマには、福音書から婚宴のたとえ話(マタイ22・1−14参照)を選びました。招かれた者たちが招待を断ると、物語の主人公である王は家来たちにいいます。「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れてきなさい」(9節)。鍵となるこの一節を、たとえ話とイエスの生涯という文脈で考えてみると、福音宣教のいくつかの重要な側面――シノドスの旅の最終段階にある現在、キリストの宣教する弟子であるわたしたち全員にとって、目下集中的に話題となっていること――が照らされます。今回のシノドスは、「交わり、参加、宣教」というテーマのもと、教会をその最優先課題である、現代世界における福音宣教に向けて再始動させなければならないとするものです。

1.「出て、連れてきなさい」―― 疲れを知らずに出向き、主の宴に招くものである宣教

 王の家来たちへの命令の冒頭に、宣教の核心を表す二つの動詞、「出て」と「連れてくる」――「招きなさい」の意味――が登場します。

 前者については、前もって家来たちは、招こうとする者たちに王のことばを伝えるべく遣わされたこと(3−4節参照)を思い出さなければなりません。ここから、宣教とは、全人類のもとへと疲れを知らずに出向き、神との出会いと交わりに招くことだと教えられます。疲れを知らずに――。愛に満ち、いつくしみ豊かな神は、つねに一人ひとりのもとへと出向き、その人が無関心であろうとも拒絶しようとも、み国の幸福に招いておられます。同じく、よい羊飼いであり、御父から遣わされたかたであるイエス・キリストは、イスラエルの民の失われた羊を探しに出掛け、いちばん遠くにいる羊のもとにまで行き着くために、さらに遠くへ出掛けたいと望んでおられたのです(ヨハネ10・16参照)。このかたは、ご自分の復活の前も後も弟子たちに「行きなさい」と命じ、ご自分の宣教に彼らを引き入れました(ルカ10・3、マルコ16・15参照)。だからこそ教会は、主から受けた使命を忠実に果たすために、境界線をことごとく越えて進み続け、困難や障害に直面しても疲れを知らずに、落胆することなく、何度でも出掛けていくのです。

 この機会に、宣教者の皆さんに感謝したいと思います。キリストの呼びかけにこたえ、祖国を離れ遠くへ行き、福音をまだ受け取っていない人々、あるいは、受け取ったばかりの人たちのもとに届けるため、すべてと決別したかたがたです。親愛なる皆さん。皆さんの惜しみない献身は、イエスが弟子たちに託された、諸国民への宣教という責務の具体的な表出です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28・19)。ですから地の果てまで福音化する働きのために、新たな多くの宣教者の召命を求めて、神に祈り、感謝し続けましょう。

 ですから忘れてはなりません。すべてのキリスト者は、どんな環境においても、福音について自分に固有のあかしをもって、この全世界への宣教に加わるよう求められています。それは、教会全体でもって、主であり師であるかたとともに、今日の世界の「町の大通り」にたえず出ていくためです。そうです。「今日の教会の悲劇は、イエスは扉を内側からたたき続けているのに、わたしたちがイエスを外に出ないようにしていることです。主が来られたのは宣教のためで、わたしたちが宣教者となることを望んでいるのに、主を『わがもの』として引き留め、出て行かないようにする……、そうした教会となってしまうことばかりです」(教皇フランシスコ「教皇庁いのち・信徒・家庭省主催会議――司牧者と信徒の協働(2023年2月18日)――参加者へのあいさつ」)。洗礼を受けたわたしたち皆が、それぞれの立場に応じて、キリスト教の黎明期のように、新たな宣教運動を始めるため再出発する覚悟をもつことができますように。

 たとえ話の中の、家来たちに対する王の命令に話を戻すと、出向くことは、声をかけること、より正確にいえば招くことと一緒になっています。「さあ、婚宴においでください」(マタイ22・4)というようにです。このことは、神から託された使命にある、もう一つの重要な側面を示唆します。想像に難くないことですが、使者を務めたこの家来たちは、王の招きを大急ぎで、けれども深い敬意と慎みをもって伝えました。同じように、すべての造られたものに福音をのべ伝えるという宣教には、必然的に、そこで告げられているかたと同じ姿勢がなければなりません。「死んで復活したイエス・キリストにおいて現される、救いをもたらす神の愛の美」(使徒的勧告『福音の喜び』36)を世に告げ知らせるとき、宣教する弟子たちはそれを、自身にもたらされた聖霊の実である、喜び、寛容、親切(ガラテヤ5・22参照)をもって行うのです。押しつけず、無理強いせず、改宗を強要せずに、神の流儀、神のなさり方の映しとして、必ず寄り添いの心、思いやり、優しさをもって宣教するのです。

2.婚宴に――キリストと教会の宣教にある、終末的視点とエウカリスチアの視点

 このたとえ話の中で、王は家来たちに、息子の婚宴への招待状を届けるよう命じています。この婚宴は終わりの日の宴の映しであり、救い主、神の御子、イエスの到来によってすでに実現している神の国での、最終的な救いのイメージです。イエスはわたしたちに豊かないのちを与えてくださったかたです(ヨハネ10・10参照)。それは、神が「死を永久に滅ぼしてくださる」ときの、「よい肉と古い酒」(イザヤ25・6−8)が豪華に並んだ食卓によって象徴されるものです。

 キリストの使命は、その宣教の初めにご自身が告げたように、時の充満とつながっています。「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1・15)。だからキリストの弟子たちは、師であり主であるかたと同じその使命を受け継ぐよう招かれているのです。これに関しては、第二バチカン公会議の、教会の宣教の務めがもつ終末的特徴についての教えを思い起こしてみましょう。「宣教活動の期間は、主の最初の到来と、……二度目の来臨までの間である。ということは、主が来られるまでに、あらゆる民に福音がのべ伝えられなければならない」(『教会の宣教活動に関する教令』9)。

 わたしたちは、初代教会のキリスト者の宣教熱には、終末的な側面が色濃いことを知っています。彼らは福音を告げ知らせることに切迫感をもっていました。現代においても、この視点を覚えておくことは大切です。それが、「主は近くにおられる」と知る人の喜びと、神の国でわたしたち皆がキリストとともにあずかる婚宴という目的地に向かう人の希望とを携え、福音宣教する助けとなるからです。こうして、世が消費主義、利己的な幸福、蓄財、個人主義といったさまざまな「婚宴」を示す中で、福音はすべての人を、神との、そして人間相互の交わりにおいて、喜び、分かち合い、正義、友愛が支配する、神の宴へと招いています。

 キリストからのたまものである、このようないのちの充満は、教会が主に命じられ、主を記念して祝う聖体の宴に先取りされています。ですから、わたしたちが福音宣教によってすべての人に届ける終わりの日の宴への招きは、主がご自分のことばと、御からだと御血とをもって養ってくださる聖体の食卓への招きに、本来的に結ばれています。ベネディクト十六世が教えていたとおりです。「感謝の祭儀が行われるごとに、終わりの日の神の民の集いが秘跡の形で実現します。わたしたちにとって聖体の宴は最後の宴の実際の先取りです。この最後の宴は、預言者たちによって前もって語られ(イザヤ25・6−9参照)、新約の中では、諸聖人の交わりの喜びのうちに祝われる、『小羊の婚礼』(黙示録19・7−9)と述べられます」(使徒的勧告『愛の秘跡』31)。

 そのためわたしたちは皆、感謝の祭儀をそのあらゆる面で、なかでも終末的な面と宣教的な面において、いっそう熱心に味わうよう求められています。この点について、次のことを今一度確認したいと思います。「宣教のわざへと導かれることなしに、聖体の食卓に近づくことはできません。宣教は、神のみ心によって計画され、すべての人に達することを目指すからです」(同84)。コロナ禍を経て、多くの地方教会が見事に復活させている感謝の祭儀は、信者一人ひとりに宣教の心をかき立てるための、いっそうの基盤となるでしょう。ミサのたびに、さらなる信仰と熱い心をもって応唱すべきです。「主よ、あなたの死を告げ知らせ、復活をほめたたえます。再び来られるときまで」。

 こうした展望を踏まえ、2025年の聖年を準備する祈りの年である今年、皆さんに呼びかけたいのは、教会の福音宣教のために、何よりもミサに参加すること、そして熱心に祈ることです。教会は救い主のことばに従順で、感謝の祭儀や典礼祭儀のたびに、「み国が来ますように」と祈る「主の祈り」を神にささげ続けています。このように、日々の祈りと、とりわけ感謝の祭儀が、わたしたちを神のうちでの終わることのないいのちへと、神がすべての子らに用意してくださる婚宴へと向かう旅路を歩む、希望の巡礼者、希望の宣教者にしてくれるのです。

3.「だれでも」――キリストの弟子たちの世界への宣教と、ひたすらシノドス的で宣教的な教会

 最後となる三つ目の考察は、王の招待を受けた人たちについてです。「だれでも」――。はっきり申し上げたとおりです。「この『だれでも』こそが宣教の核心です。だれ一人、例外はいません。だれでもです。ですからわたしたちの宣教はことごとく、すべての人をご自分へと引き寄せるために、キリストのみ心から生じるものなのです」(教皇フランシスコ「教皇庁宣教事業総会参加者へのあいさつ(2023年6月3日)」)。分断や紛争にさいなまれた世界の中で、今日もなお、キリストの福音は柔和で強い声となり、人々が出会い、互いを兄弟姉妹として認め、多様性の調和を喜ぶよう招いています。神がお望みになるのは、「すべての人々が救われて真理を知るようになること」(一テモテ2・4)です。ですから、宣教活動においてわたしたちは、すべての人に福音を告げるために遣わされた者であることを決して忘れてはなりません。そしてそれは、「新たな義務を人に課すようなものではなく、喜びを分かち合い、美しい地平を示し、だれもが望む宴に招くようなもの」(使徒的勧告『福音の喜び』14)として告げられなければなりません。

 キリストの宣教する弟子たちはいつも、その社会的・道徳的状況を問うことなく、すべての人を案じる心を忘れません。婚宴のたとえは、王の命令に従う家来たちは「見かけた人は善人も悪人も皆」(マタイ22・10)集めたと伝えています。さらには、「貧しい人、からだの不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」(ルカ14・21)、つまり、社会の中で取り残され、疎外された人たちこそが王の賓客なのです。このように、神が用意された御子の婚宴は、永遠にすべての人に開かれています。わたしたち一人ひとりに対する神の愛は大きく、条件などないからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3・16)。変えてくださり救ってくださる神の恵みにあずかるよう、だれもが、あらゆる人が招かれています。わたしたちがすべきことはただ、神からのこの寛大なたまものに「はい」と答え、それを受け入れ、それによって変容されるがままになって、「婚礼の礼服」をまとうように、それに身を包むことです(マタイ22・12参照)。

 すべての人への宣教には、皆で取り組む必要があります。ですから、福音に仕える、ひたすらシノドス的で宣教的な教会を目指す道を歩み続けなければなりません。シノダリティはそれ自体宣教的であり、逆もまたしかりで、宣教は必ずシノドス的です。だからこそ今日、緊密な宣教協力は、普遍教会においても、また部分教会においても、より緊急かつ必須なものとなっています。第二バチカン公会議と前任の教皇たちに倣い、世界中の全教区に対して、教皇庁宣教事業への協力を要請します。同事業は、「カトリック信者にすでに幼少のころから、真に普遍的、宣教的な精神を浸透させるための手段であり、あるいはまた、全宣教地の益のため、それぞれの必要に応じて、援助のための募金活動を効率よく行うための手段」(『教会の宣教活動に関する教令』38)として主要な部分を担っています。こうした理由から、すべての地方教会で行われる世界宣教の日の献金は全額、世界連帯基金に充当され、教皇庁信仰弘布事業により教皇の名において、教会のあらゆる宣教事業の必要のために分配されます。主がわたしたちを導き、よりシノドス的で宣教に励む教会となるために助けてくださるよう、祈り求めましょう(教皇フランシスコ「シノドス通常総会閉会ミサ説教(2023年10月29日)」参照)。

 最後に、マリアに目を向けましょう。ガリラヤにあるカナでの、まさしく婚宴の場で、イエスに最初の奇跡を願い出たかたです(ヨハネ2・1−12参照)。主は花婿花嫁とすべての招待客に、たっぷりの新しいぶどう酒を与えましたが、これは、終わりの日に神がすべての人のために用意しておられる婚宴を予感させるしるしです。今日もまた、キリストの弟子たちの福音宣教のために、マリアの母としての執り成しを祈り願いましょう。聖母の喜びとすぐに動かれる姿勢で、優しさと愛情の力をもって(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』288参照)、出向いて、すべての人に救い主である王の招きを届けましょう。聖マリア、福音宣教の星よ、わたしたちのために祈ってください。

ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
2024年1月25日 聖パウロの回心の祝日
フランシスコ