ポーリン・マリ・ジャリコと宣教の日

ポーリン・マリ・ジャリコ

 「世界宣教の日」は教皇庁信仰弘布事業が全世界に向かって毎年十月によびかける「世界宣教月間」の頂点です。世界中のカトリック信徒が、心を一つにして宣教のために祈りと献金をささげるようになった背景に、フランスの一人の女性信徒の存在がありました。

 1799年7月22日、ポーリン・マリ・ジャリコ(1799-1862)はフランスのリヨンに生まれました。キリスト者として良い教育を受け、知的で快活な少女は美しい女性へと成長しました。しかし17歳になったジャリコは、重い病に襲われます。同時期に母の死を体験した後、所属教会の主任司祭に自分の心を打ち明けました。裕福で虚栄心に満ちた生活を捨て、ただ主のみに仕える生き方を求めていると伝えます。それから貧しい人びとの家の世話や、彼らがもつ悪い習慣をなくすためにはどうしたらよいのか、その手段を探すようになりました。若いジャリコの心の中には、神の愛が宿っていました。19歳になったジャリコは、若い労働者たちと共に扶助団体を設立します。主が呼びかけられるところにはどこへでも出かけ、人々の助けとなるため、またいつでもその用意が整っているようにするためでした。この扶助団体は、米国・ルイジアナで働く宣教師たちが必要とする資金を集めることに成功します。

 時は流れて、1819年にジャリコは宣教のための献金を集める全く新しい方法を発案しました。扶助団体のメンバーを10人ずつ1グループにして、各メンバーは一週間に1スー(フランス旧銅貨)ずつ持ち寄らなければなりません。さらにそのグループを10ずつまとめて、100人で1つのグループを構成するように導きました。団体はフランス全土だけでなく、ヨーロッパ全域に広がりを見せ、瞬<またた>く間に成長したのです。1822年、一人の女性信徒からはじめられた運動は「信仰弘布事業」(Œuvre de la propagation de la foi)の設立を促しました。日本の再宣教にあたって、来日したパリ外国宣教会の神父さま方も、設立されたばかりの「信仰弘布事業」と深いつながりをもっていたと言ってよいでしょう。ジャリコは「わたしたちはカトリックです。わたしたちはあの宣教活動、この宣教活動を支えるのではなく、世界のすべての宣教活動を支えるのです」と力強く宣言したことが知られています。カトリック者としてのアイデンティティを、神父ではなく、修道者でもなく、一人の女性信徒があかししました。1922年ジャリコの没後、教皇ピオ十一世は「信仰弘布事業」を「教皇庁(pontificale)」の団体として認可しました。

 ポーリン・マリ・ジャリコにとって、宣教のために献金を募ることと祈りとは、切り離せないものでありました。限界のない愛の力を信じ、「リビング・ロザリー」(Living Rosary)を大切にしながら、日々の生活の祈りをとおして、世界中の宣教活動を支えました。今日に至っては、「世界宣教の日」にあたり、教皇さまご自身が全世界に向かって宣教のメッセージを送ってくださいます。しかし一人の女性信徒の愛にあふれる応答と呼びかけがなければ、この「世界宣教の日」と世界宣教月間は生まれなかったかもしれないのです。

 教皇フランシスコは「すでに無償でいのちを受けたということが、一粒の種として自分自身を差し出すという力強い動きに加わるよう招かれていることを示唆<しさ>しています。洗礼を受けた人のうちでその種は、結婚生活や神の国のために独身で生きることの中で、愛に応答して実ります。人間のいのちは神の愛から生まれ、愛のうちに成長し、愛に向かいます。だれも神の愛から排除されることはありません。」(2020年「世界宣教の日」教皇メッセージ)と述べています。

 教皇庁信仰弘布事業の創立者である女性信徒ポーリン・マリ・ジャリコは、今年2022年5月22日、リヨンにおいて列福されました。福者ジャリコの取り次ぎによって宣教のための祈りを続けましょう。