2025年「世界宣教の日」教皇メッセージ
2025年「世界宣教の日」教皇メッセージ
「諸民族の中で生きる希望の宣教者」
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
2025年の聖年における世界宣教の日に向けて、聖年の中心的なメッセージが「希望」であることを踏まえ(大勅書『希望は欺かない』1参照)、テーマに「諸民族の中で生きる希望の宣教者」を選びました。このテーマがキリスト者各人に、そして洗礼を受けた人の共同体である教会に思い起こさせるのは、キリストの足跡に従って希望の使者となり、それを築く者となるという根本的な召命です。忠実な神が復活したキリストにおいて、「生き生きとした希望を与えて」(一ペトロ1・3-4参照)わたしたちを新たに生まれさせてくださったことを胸に、すべての人が恵みのときを過ごせるよう願います。また、キリスト教宣教者のアイデンティティの重要な側面をいくつか思い起こすことで、わたしたちが神の霊に導かれ、聖なる熱意に燃えて、教会の新たな福音宣教の季節を迎えることができるようせつに願います。教会は、暗い影が垂れ込める世界に、再び希望を取り戻すために遣わされているのです(回勅『兄弟の皆さん』9−55参照)。
1.わたしたちの希望、キリストの足跡に従って
2000年の大聖年に続き、第3千年期における最初の通常聖年を祝うにあたり、わたしたちは歴史の中心であるかた、「きのうも今日も、また永遠に変わることのないかた」(ヘブライ13・8)キリストに目を向け続けましょう。キリストはナザレの会堂で、ご自身の歴史的な現存である「今日」、聖書のことばが実現したと宣言なさいました。そうしてご自分が、神の国の福音をもたらし、全人類に「主の恵みの年」を告げるために、聖霊によって油を注がれて御父から遣わされた者であることを明かされたのです(ルカ4・16−21参照)。
世の終わりまで続くこの神秘的な「今日」にあって、キリストはすべての人にとっての、なかでも神にのみ希望を置く人々にとっての救いの実現です。キリストは地上での生涯において、「ほうぼうを巡り歩いて人々を助け」、罪や悪魔に苦しむ人たちを「すべていやし」(使徒言行録10・38参照)、困窮者と民とに神への希望を再びもたらされたのです。さらにキリストは、罪以外のすべての人間の弱さをその身に受け、ゲツセマネでの苦悩や十字架上でのように、絶望に陥りかねないほどの危機も通られたのです。けれどもイエスは、すべてを父なる神にゆだね、人類のための神の救いの計画に全幅の信頼をもって従われました。それは、希望に満ちた未来のための平和の計画です(エレミヤ29・11参照)。このようにしてキリストは、聖なる希望の宣教者となり、過酷な試練の中でも、神から授かった使命を幾世紀にわたり果たし続ける人たちの、最高の模範となられたのです。
主イエスは、ご自分の弟子たちをすべての民族のもとに遣わし、神秘のうちに彼らとともにおられることによって、人類にとっての希望というご自分の務めを今も果たし続けておられます。今日でも主は身を低くかがめ、貧しい人、苦しむ人、絶望する人、悪に虐げられている人一人ひとりの傷に、「なぐさめの油と希望のぶどう酒」(イタリア語版『ローマ・ミサ典礼書』叙唱「よいサマリア人であるイエス」)を注いでおられます。キリストの弟子であり宣教者である共同体としての教会は、自身の主であり師であるかたに従順に、同じ奉仕の精神をもってその使命を続け、諸国民のただ中ですべての人にいのちを差し出します。教会は、迫害、苦難、困難に直面する一方で、個々の成員の弱さゆえの己の不完全さや過ちにも向き合わなければなりません。それでもキリストの愛につねに突き動かされ、キリストに結ばれてこの宣教の道を歩み、キリストのように、キリストとともに、人類の叫びを、いや、決定的あがないを待ち望むすべての被造物のうめきを受け止めるのです。主がご自分の足跡をたどるよう、いつも、いつまでも招かれている教会の姿、それは、「静止したままの教会ではなく、宣教する教会、世界の道々を主とともに歩む教会」(「世界代表司教会議[シノドス]通常総会の閉会ミサ説教」2024年10月27日)です。
ですからわたしたちも、主イエスの足跡をたどる道に踏み出すよう促されていることを感じ取り、主とともに、主のうちにあって、すべての人のための希望のしるしとなり、そして使者となりましょう。生きる場として神から与えられた、どの場所、どの状況においてもです。洗礼を受けたすべての人、宣教するキリストの弟子たちが、地上の隅々まで、キリストの希望を輝かせることができますように。
2.キリスト者――諸民族の中の希望の運び手、希望を築く者
キリストに従うキリスト者は、巡り合う人々の具体的な生活状況をともにしながら福音を伝えるよう求められており、そうすることで希望の運び手、希望を築く者となります。まさしく、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある。真に人間的なことがらで、キリストの弟子たちの心に響かないものは何もない」(『現代世界憲章』1)のです。
第二バチカン公会議のこの有名な主張は、すべての時代のキリスト教共同体の感性と生き方を表現しており、その構成員を鼓舞し続け、世において兄弟姉妹とともに歩む助けとなっています。わたしはとりわけ「諸民族のもとへ遣わされた(ad gentes)」宣教者、つまり神の呼びかけに従って他国へ赴き、キリストにおける神の愛を伝える皆さんのことを思い起こしています。心より感謝いたします。皆さんの生き方は、すべての民に福音をのべ伝えるよう弟子たちを派遣した復活のキリストの命令(マタイ28・18−20参照)に具体的にこたえておられます。こうして皆さんは、洗礼を受けた人の普遍的な召命を示しておられます。聖霊の力と日々の献身をもって、諸民族の中で、主イエスから与えられた大いなる希望の宣教者となるということです。
この希望の地平は、過ぎ去るこの世の現実を超えて、神の現実――わたしたちは今すでに、それを味わっています――へと開かれています。まさに聖パウロ六世が述べたように、キリストにおける救いは、教会がすべての人に神のいつくしみからの贈り物としてもたらすものですが、「この世的な欲求、希望、ことがらや努力に相当するような物質的かつ精神的なニーズにこたえるようなものではなく、すべての限界を超えて、唯一にして至聖な絶対者なる神との一致に達する救いであります。それは確かにこの世で始まるが永遠において完成される、超越的で終末的な救いです」(使徒的勧告『福音宣教』27)。
このような大きな希望に生かされるなら、キリスト教共同体は新たな人間性のしるしとなることができます。世界で、とくに「発展した」とされる地域では、人間性の危機が深刻な症状を呈しています。喪失感の蔓延、高齢者の孤立と切り捨て、隣人を助けようとする思いの欠如です。技術的にもっとも進んだ国々では、近しさが失われつつあります。だれもが互いに結びついてはいるのに、かかわりは希薄です。効率性や物への執着、そして野心が、わたしたちを利己的にし、利他的な行動をできないようにします。わたしたちは福音を共同体の中で生きることによって、健全であがなわれた、まったき人間性を取り戻せるのです。
そのためわたしは、聖年公布の大勅書に示した行動(7−15)を、貧しい人や社会的弱者、病者、高齢者に、そしてとりわけ物質主義と消費主義の社会から排除された人々に配慮しながら実行するよう、あらためて呼びかけます。そしてそれを、神の流儀で、すなわち近しさ、あわれみ、優しさをもって、具体的状況がそれぞれ異なる兄弟姉妹一人ひとりとの関係を大切にしながら実践してください(使徒的勧告『福音の喜び』127−128参照)。そうなると多くの場合、わたしたちのほうが、彼らから希望をもって生きることを教わるのです。そして、人間どうしのかかわりを通して、主のあわれみ深いみ心である、愛を伝えることができるようになるのです。わたしたちは、「キリストのみ心は、……最初の福音告知の生きた核」(回勅『ディレクシット・ノス』32)だということを身をもって味わうでしょう。この泉からくむことで、神から受けた希望を素直に差し出すことができますし(一ペトロ1・21参照)、神から受けた慰めと同じ慰めを、他者に届けることができるのです(二コリント1・3−4参照)。イエスの人としての心臓(heart)、そして神としてのみ心(heart)を通して、神は一人ひとりの心に語りかけ、ご自分の愛へとすべての人を引き寄せようとしておられます。「わたしたちは、この使命を継続するために遣わされました。すなわち、キリストのみ心と御父の愛のしるしとなり、全世界を抱き寄せるのです」(「教皇庁宣教事業総会参加者へのあいさつ(2023年6月3日)」)。
3.希望の使命を新たにして
今日、希望の使命の緊急性を前に、キリストの弟子たちはまず、自らが希望の「職人」となり、混乱し不幸に陥りがちな人類を回復させる者となる修練を積むよう求められています。
そのためわたしたちは、すべての感謝の祭儀、とりわけ典礼暦年の中心であり頂点である過越の聖なる3日間において生きる過越の霊性を、自らのうちに新たにしなければなりません。わたしたちは、キリストのあがないの死と復活において、すなわち、歴史の永遠の春を告げる主の過越において洗礼を受けた者です。ですから「春の民」なのです。いつも希望に満ちたまなざしをもって、それをすべての人と分かち合いたく思っています。キリストにあって、生涯の「最後に言い渡されることばは死や憎しみでない、わたしたちはそう信じ、そう心得ている」(「キリスト者の希望に関する連続講話(2017年8月23日)」参照)からです。ですから、典礼祭儀と諸秘跡のうちに実現する過越の神秘から、わたしたちはたえず聖霊の力をくみ取り、熱意、決意、忍耐をもって、世界の福音化のための広大なフィールドで働くのです。「キリストの復活と栄光は、わたしたちの希望の深遠なる源です。キリストからゆだねられた使命を果たすにあたって、キリストからの助けが欠けることはありません」(使徒的勧告『福音の喜び』275)。キリストにおいて、わたしたちは聖なる希望を生き、あかしします。この希望は、「一人ひとりのキリスト者にとってのたまものであり、務め」(教皇フランシスコ『希望は闇夜の光(La speranza è una luce nella notte)』バチカン市国、2024年、7参照[邦訳未刊])なのです。
希望の宣教者は、祈りの人です。尊者ヴァン・トゥアン枢機卿が力説していたように、「希望する人は祈る人」だからです。彼は長い獄中生活の苦難の中で、忍耐強い祈りと聖体から授かる力によって、希望を保ち続けたのです(F. X. グエン・ヴァン・トゥアン『希望の道(Il cammino della speranza)』ローマ、2001年、963参照[飯塚成彦訳、ドン・ボスコ社、2003年、301頁])。忘れてはなりません。祈りは、第一の宣教活動であり、同時に「希望の最初の力です」(「キリスト者の祈りについての連続講話(2020年5月20日)」)。
ですから、祈りから希望の使命を新たにしていきましょう。とりわけ神のことばによる祈り、なかでも詩編による祈りを大切にしましょう。詩編は、聖霊が作曲した壮大な祈りのシンフォニーです(「霊と花嫁についての連続講話(2024年6月19日)」参照)。詩編は、逆境の中でも希望をもつこと、希望のしるしを見きわめること、すべての民が神を賛美するようになる「宣教者としての」願いをたえずもつことを教えてくれます(詩編41・12、67・4参照)。祈ることによって、神がわたしたちの内にともされた希望の炎を燃やし続けることができます。それは大きな炎となって、祈りに促された具体的な行動や姿勢によっても、周りにいるすべての人を照らし温めることができるでしょう。
つまるところ福音宣教は、つねに共同体のプロセスであり、それはキリスト者の希望の性質と同一です(ベネディクト十六世回勅『希望による救い』14参照)。このプロセスは、最初の福音告知と洗礼で終わるものではなく、洗礼を受けた一人ひとりの福音の旅路に同伴することで、キリスト教共同体を築いていくことをもって続くものです。現代社会において、教会への帰属は一度得られたらそれで終わりというものではまったくありません。そのため、成熟したキリストへの信仰を伝え養成するという宣教活動は、「あらゆる教会活動の典型」(使徒的勧告『福音の喜び』15)であり、祈りと行動の交わりを必要とする働きです。わたしは、教会のこの宣教的なシノダリティをあらためて強調するとともに、洗礼を受けた人に課された宣教する責任を促し、誕生したばかりの部分教会を支える、教皇庁宣教事業が果たす働きについても力説し続けます。そして子どもたち、若者、大人、高齢者、すべての皆さんが、自らの生活のあかしと祈りをもって、犠牲と寛大さをもって、共同で担う福音宣教の使命に積極的に参加してくださるよう心より願います。そのことに心から感謝いたします。
親愛なる姉妹と兄弟の皆さん。わたしたちの希望であるイエス・キリストの母、マリアに心を向けましょう。今年の聖年のため、そしてこれからの年月のため、マリアに願いを託します。「キリスト者の希望の光が、すべての人に向けられた神の愛のメッセージとして、一人ひとりに届けられますように」(『希望は欺かない』6)。
ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
2025年1月25日 聖パウロの回心の祝日
フランシスコ